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《旅日記》【乗車記◆私鉄全線走破旅◆】平成筑豊鉄道編③~北九州の過去の繁栄をめぐる~

平成筑豊鉄道の全線走破旅の最終回、今回は石炭の街北九州をめぐります。

 おはようございます。

 

 業の発展というのはその地域そのものの発展に直結することが多く、人の移動やモノの移動、それに伴う交通の発展やその土地の商業の発展など様々な影響があります。まさにそれが経済と言われるわけですが、産業の発展は時に暗い部分を明るみにさせることもあります。それが「公害」です。

 

                                        

↓前回の記事です。直方から行橋まで駅名に注目しながらの記事です。ぜひご覧ください!

                                        

鉱害からの災害復旧の記念碑が堂々と建てられてました。

今ではのどかな田園風景が広がり、車も少なくものすごくのんびりとしています。

 

 公害といえば小学校でも習うであろう、「四日市ぜんそく」や「水俣病」、「イタイイタイ病」など有名なものがありますが、今回は同じ産業発展による害でも「鉱害」からスタートしていくという何ともこのブログではなかなかない重い始まりです。

 

 鉱害というのは普通に呼ばれる「公害」と近いものの、その影響が炭田や鉱山などによるものを指します。そして、その被害多く受けたのが北九州は筑豊地域に広がる鉱山のふもとの地域。この地域は炭鉱での採掘などが影響してか、周辺の水田など農家へ大きな影響を及ぼすようになり、また河川も汚染されて豪雨の際などはその被害がさらに拡大したものでした。

 

ボタ山と呼ばれるかつて炭鉱だった山、かなり平坦な形になってるのが特徴です。

 

 国が川の護岸工事や炭鉱の停止によってその環境はいくばく改善されたものの、かなり長期にわたりその影響は大きく及ぼしました。今回訪れたのは市場駅近くにあるその郊外からの災害復旧記念碑。近くに碑文としてこの地域で起こった経緯が記されてました。今でこそのどかに田んぼが広がる地域ですが、今から半世紀近く前は住民の生活を脅かすような状況だったのは信じられない感じがしました。

 

これは竪杭櫓(たぐいやぐら)と呼ばれるもの、今のエレベーターの原理で人や石炭を運んでいました。

公園にそびえたつ2本の煙突、今は完全に観光用で残っていますが当時は煙がもくもく出ていたそうです。

 

 さて、もちろん暗い話だけで終わるわけにはいきませんので、続いては炭鉱の遺構が多く残っている田川伊田駅で途中下車します。この駅は駅前に石炭記念公園という公園があり、ここは元々炭鉱の施設として活用されたのを今は市民の憩いの場、そして歴史的に重要な地として観光向けにもしっかり整備されています。

 

日本の煙突とSLの組み合わせ、今では子供の遊び場となっており賑わっていました。

 

 炭鉱として稼働していた時に使われていた二本煙突や竪坑櫓と呼ばれる施設が今もそのまま残っています。石炭を掘り出すのにあたり、現場で使用された動力を生み出すための機会が多くあり、その排気口としてこの煙突が用いられました。また、公園内には記念館もあり、中には石炭の街として発展したときの町並みを再現したり、そのほか当時の資料などが多く保管されているようです。

 

 やはり鉄道ファンとしては蒸気機関車に目が行ってしまいますね。この炭鉱、お分かりの通り田川伊田駅からすぐのところにあるので、ここで採鉱された石炭は今のJRの日田彦山線平成筑豊鉄道の路線によって八幡など北九州の工業地域に向けて輸送されていました。この駅と公園を訪れるとこの地域の国鉄路線がいかに重要だったのかがよくわかります。今でこそJR九州平成筑豊鉄道に分かれていますが、それでもその歴史は何となくわかるような感じがします。

 

最後は田川伊田駅の駅舎に併設された食堂で食べた牛丼、めちゃくちゃおいしかったです。

 

 さて、3回に分けてきた平成筑豊鉄道の全線走破旅、これにて最終回となります。小さなローカル線と思いながらも、見どころは十分にあり、そして九州の明治以降の歴史を語るには外せない地域を回っていることからもいろいろ学ぶところは多かったです。次回はどの路線になるのか、全くの未定ですがお楽しみに~!

 

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